ASDタイプに…教えるポイント、分かりにくくてゴメンなさい!リライトしました!
ASD子育て

【実例ブログ】難しい凹の理解

ASDの息子と噛み合わずに困惑と衝突を繰り返す日々でしたが、特性を理解し、きちんとサポートできる母になりたくて奮闘してきました。
これまでの子育ての学びや気付きをこのブログでご紹介することで、同じ境遇の方のお役に立てたらうれしいです。

ASD特性(特徴)のある人が、凸凹さんと表現されることがあります。
確かに分かりやすい例えです。

できること・得意なこと=凸
できないこと・苦手なこと=凹

この差がはっきりしているのが特徴です。
この凸のせいで、わたしは夫と息子の凹の本質的な理解に苦戦しました。

今回は、この凹の理解が “なぜ、どんなふうに困難だったのかについて綴っていきます。

  • 前半が夫編
  • 後半が息子編

【実例】ASDタイプの夫の凸に惑わされて凹の理解に苦戦

ではまず、なぜ?から。
凹の理解が困難な理由は、凸を見ていると凹があるようには思えないからです。
ついつい凸を基準にして、接したり、判断したりしてしまうのです。

例えば、何度も同じこと(失敗・もの忘れ)を繰り返すというのが特性としてあるのですが、普段の様子を見ていると、できるようにしか見えない。できないなんて、どうしても思えないのです。
そして…

「(やれるのに)やらない」という感覚に囚われてしまうのです。

例えば、うちの夫の話。
実はうちは診断はありませんが夫にもASD特性があります。
学歴も職歴も社会的に低くないポジションにあるような人です。
例えば“もの忘れ”があったとき、普段の様子からはそんな簡単なことができないだなんて、にわかには信じがたいのです。

わたしがそこから受けとるのは、「やれるけどやらない」という友好的でない意思や、何度も伝えているわたしを軽視しているというメッセージで、長い時間をかけて不信感や怒りが増幅されていき、ほかの様々も積み重なって結婚生活は破綻寸前まできていました。

わたしから、そして彼からも笑顔が消えました。

そして彼は帰宅すると自室に引きこもるようになりました。
それは、ケンカしてわたしを拒絶しているというのとは違った印象を受けました。
あとになって思えば、あれは、しいたげられることから身を守っていたのです。

自己分析してみると、

やれるのにやらない。やれるのにやるつもりがない。
そんなふうに思えてしまうから、軽視されている、大切にされていないと感じる。

のだと思いました。
つまり、彼に、悪意のような、負の意志があると思っていたということです。

しかし、いろいろ落ち度はあったものの、彼は元来とてもチャーミングで朗らかな人でした(気付けばわたしに見せることはなくなっていましたが…)。
繰り返し悪意を持って、わたしになにかするような、性根の悪い人間だとはやはりどうしても思えませんでした。

だとすると、なにが起こっているのだろう?
誰の何の得にもなっていないこの状況を打破するためにも、これまで起きていたことはどういうことだったのか?をきちんと考える必要性がありました。

凹の存在に気付いていない妻と、凹のため失敗してしまった夫のかみ合わないやりとり

妻

なんでやらないの?!

夫

なんで失敗を怒るんだよ!

妻

は?!ああいうのは失敗っていわないでしょ?!

と、こんなやりとりがよくありました。
そのときは、まったく理解できていませんでしたが、答えはここにありました。
彼の言うとおり、失敗なのです。

【実例】かみ合わなかった夫婦の凸凹分析

整理しますと、このトラブルの元になっているのは、夫のもの忘れです。

頼んだのに、どうしてやってくれないの?どうして適当にやっつけるの?

頼んだのにやってくれなかった。
これは、わたしからすると、怠慢、誠意の欠如など、彼の “わたし” や “家のこと” への “意識や姿勢” 、つまりは思いやりのなさについて怒りを覚えているのです。

そういうの、失敗って言わなくない!?

夫は失敗を責めるなと主張し続け、話は平行線です。
夫がなんとか言い逃れよう、煙に巻こうと思っているわけではないことが、今ではわかります

言われていたことを、覚えていようと思っていたのに、やっぱり忘れてしまった。
やろうとしたけどできなかった、もしくは、やろうと思い立つ=思い出すことができなかったのです。

ASDの特性に、興味関心の薄いことに対する記憶力が著しく弱いというのもあるそうです。
家事への関心が皆無の夫がわたしの依頼を覚えておくためには、大変な集中力が必要なのです
また、

物事の類似性・共通性を見出すことが苦手なので、
前に言われたことと同じようなミスだという認識を持つ(紐づける)こと自体が難しい

のです。
だから、下手をすると同じようなミスを繰り返している自覚もないということになります。

やらないのではなく、
彼は本当にやれなかったのです。
それがわからなかった。

できない

それが、やっと腹に落ちました。
そこに意思はない
人間性の問題もない
わたしへの愛情の問題でもない

できないから、できない。 なぜできないかわからないから、できない
自分がいちばん知りたい。でも、わからない。

それなのに、咎められ続けるというのは、本当につらいことです。
わたしがやってきたことは、足を骨折している人に対して気合が足りないから走れないんだ!とか、目の不自由な方に見ようとしないから見えないんだ!などと追い詰めるようなことだったのだと我に返りました。

悪気もないし、そんなつもりは毛頭なかったとしても、彼を深く傷つけ、悲しい思いをさせていたことに変わりありません。
わたしのほうから、もう一度立て直そうと提案しました。
夫に対する目線を変えられてからは、目に見えて関係性が改善しています。

【実例】ASDっ子の凹の理解を邪魔した~親ならではの2つの感覚~

夫との向き合い方については目線を変えられた一方で、わたしは息子に対しては凸基準から逃れられずにいました

どうしても、やれるだろうという感覚に囚われてしまうのです。

なぜ夫に対しては腹落ちできたのに、息子に対してはできないのか?また自問自答しました。

まず一つ目は、夫と違って息子がまだ成長過程にあることで無意識に期待のようなものを抱いているからだと気づきました。

特性じゃなくて、単なる未熟さゆえのものなのではないか?

という感覚を持っていたのです。
そして二つ目は、

息子を育てる責任感に駆られていた

から、です。
夫はわたしの子育ての対象ではないので、その点で夫にはなんの責任もありませんが、

息子の人間形成については大きな責任を感じていました。
“ちゃんと育てなければ”
いつもそんな風にプレッシャーを感じていました

二つの相乗効果で、わたしが正しく導かねばという思いがいつも強くありました。
だから、修正、改善の余地があるのなら、導くべきだという方向に衝き動かされてしまったのだと思います。

でも、夫のときと同じです。
できない。
それだけなのです。

それなのに、わたしはできるはずを押し付けてしまっていました

自分の感覚では容易たやすくできると思えることが、他者にはそうでないことがあると肝に銘じるべきでした。これは相手がどんな人であろうと同じことなのに。
自分自身、できないことだらけの人間なのに、おかしな話です。

まとめ

わたしが成長を促して特性を消すなんてことは、できません。
そして、そもそも特性をなくす必要なんてありません
持って生まれた性質を否定するような親の姿勢は深く子どもを傷つけます。
息子にどんな思いをさせるのか、夫との苦い経験からも明らかです。
わたしが障害物になってはいけない。わたしが彼に対してすることで、二次障害を招きかねません。
その自覚をもって息子に向き合わなくてはと今は強く思っています。

もちろん、わたしは母として彼に貢献することはできると思います。
でも、それは彼がありのまま、特性と共生しながら、自分とはズレのある現実世界でうまく生きるための知恵を授ける意味においてです。

そこを勘違いせず、凹を本質的に理解して、息子をちゃんと支えてあげられる母になりたいと強く思います。
できれば一刻も早く、息子の本当のよき理解者になりたいです。

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