ASDタイプに…教えるポイント、分かりにくくてゴメンなさい!リライトしました!
ASD子育て

【実例ブログ】ASDっ子の “自立と支援” のバランスに悩む母

本当にクタクタに、心底疲弊してしまうことが時々あります。

いつもわたしがケアする側で、わたしの負担がケアされることはない毎日に、無性にやるせなくなったり、いつまで頑張らなくちゃいけないのだろうと、不意に途方に暮れたりしてしまいます。

息子の臨床心理士に会うときにするのは、当たり前ですが、息子をケアする話です。
そこは、息子のための場であって、わたしを支える場とは少し違います。
ありがたいと思う一方で、わたしは自分で自分をなんとかするしかないことを再確認させられる場でもあり、かえって辛くなることもありました。

夫とのことで、いよいよ一人では自分を支えきれないかもと危機感を覚えてからは、月に1回程度カウンセリングを受けるようになりました。
必要なその時、いつでもお話しできるわけでないのですが、多くを語らずとも自分の状況を理解してもらえる機会が時々あるだけでも救われます。

友だちに話を聞いてもらうことでも、もちろん癒しにはなるのですが、ASDっ子への共通理解がある前提で話ができるのとそうでないのとでは、やはり違いがあるのです。

今回は、カウンセリングで聞いてほしかったのに、予約の日が先すぎて母をザワつかせた出来事と思うところを、そこはかとなく、ブログらしく書かせていただきます。

自立と支援の間で揺れるASDっ子ママをザワつかせたこと

最近、中学生の息子に、思春期ならではなのか、色々な出来事がありました。
トラブルとまではいかないのですが、母のフォローが必要な場面がいくつかあって、人付き合いがそもそも得意とは言えないわたしがあれこれ気を揉んで、結構な負担を強いられました。

そのうちの一つのお話です。

ASDへの共通理解がない相手(または知識と理解がどの程度あるのか不明な相手)と、息子について突っ込んだ話をする機会がありました。この場合、難しさは極まります。
相手のそういった背景が分からないまま、息子について説明を迫られ(たような気がし)ました。
少ない時間で中途半端に説明するとかえって誤解を招く恐れがあり、本来はできれば避けたかったのですが、結局説明するに至りました。

説明することになったのは、予期せぬ展開だったので、わたしは少なからず動揺しており、その場面にそぐわない情報を与えてしまったかもしれないと、後になって気付いて後悔して…でも後の祭りです。結果的に、やはり好ましくない着地になってしまったような気がしています。

それすらも確認しきれない中途半端な対話の機会しか得られず、なんとも苦々しい思いだけがわたしの中に残り、限られた時間の中で伝えることの難しさを改めて噛み締めました。

また、今回、母としてのわたしがどうやら否定的に受け止められているようにも感じ、それもあってダメージが大きくなったように思います。

息子に起きた出来事をフォローするとき、これまでわたしがしてきたことは以下のようなものです。

自分の気持ちが掴みにくく、自己理解しきれない息子の内面を対話しながら探り、本人が自分事として自分で判断できるように、選択肢をいくつかピックアップして、必要があれば共に検討し、相手がいる件については相手にどう伝えればいいかをアドバイスし…

もしくは、息子にはまだ対処しきれないだろうと判断した場合には、わたしがフォローに入ったり(息子対大人の場合に限り)…

※ASDタイプの社会年齢は、実年齢の3/5とか2/3とか言われており、実際に母のわたしもそれを体感しています。中身は小学校中学年くらいの子だということです。

自分で失敗させて、その失敗から学ばせ、親は黙って子の成長を見守る。
それができない親を世間では過干渉と呼びます。

中学生の息子について、上記のようなサポートをするわたしは、世間には過干渉の母と映るのかもしれません。実際、そう思われているんだろうなと感じることが間々あります。
今回のやり取りの中でも、そう思われている節がありました。

そういうことがあると、悔しく、悲しい気持ちになり、壺にでも叫びたくなります。

おっしゃりたいことは分かります。…けど。
自立と支援のバランスが、すごく難しいんです。
手探りで、これでも頑張っているんです。

1か月ほど先までカウンセリングを受けることができないわたしは、ただただ虚しいばかりで、自分の心が鎮まるのを待つしかありません。

特性から生じる彼の生活上の凸凹のうち、凸を見ていると、支援なんてしなくてもいいんじゃなかろうかと不意に思ってしまうときが、わたしにもあります。
でも、凹に触れて、我に返るということを繰り返してきたように思います。

リアルに生活を共にしていないと、凹に触れる機会はあまりないかもしれません。
凸しか見えない人には、わたしの行為は過干渉に思えるのだと思います。

確かに、毎日あれこれと口を出して過ごしているかもしれません。
でも、わたしとしては、意図してそうしているのです。

例えば、息子はボーっとしている時間がとても多い子です。
声かけしないと、あっという間に24時間は過ぎ去ります。

睡眠不足は体調にダイレクトに影響し、余計にボーっとする時間が増える原因にもなります。
やらなければならないこと、やりたいことの時間が確保できなくなり、また忘れ物や失くし物も多くなることで、パニックになり、本人が苦しい思いをします。
平静ではない状態の日常生活では余計に脳内が混乱し…という悪循環が生まれます。

とはいえ、

自立させなきゃとか、
甘やかしちゃいけないとか、

そういう揺れる思いはわたしにもあります。
特性を理解する前は、よく突き放して自分でなんとかしなさいというやり方をしていました。

「そんなの放っておけば、自分でなんとかするようになるものよ。」
息子が幼い頃から、周囲からよく聞かされたセリフです。
でも、なんとかは “なりません” でした。

放っておいたら、いつか自らいろいろと習得するようになるのは、失敗から学びとることや、創意工夫ができる人の為せる業なのです。

「失敗から学び取る」ことができる人から、失敗する機会を奪うのは確かに違うと思います。でも、「失敗から学び取る」ことができない人に、失敗をさせ続けるのはやはり違うと思っています。

「失敗から学び取る」ことをすべての子どもにさせるのが絶対的に正とするならば、失敗を絶対に咎めない環境が前提としてあるべきだとわたしは思います。
でも、残念ながらそんなもの、世間では担保されていません。
失敗を繰り返せば、かなりの確率で叱られることになるでしょう。

その失敗が「できない」ゆえに繰り返されていることが周囲に理解されないまま、叱られ続け、またそれが人目に晒され、周囲にもダメな人のように位置づけられて生きる悲しい経験が積み重なることも想像できます。

だから、繰り返し繰り返し声をかけ、習慣化されるまで継続しています。
社会に出てから、困ることが1つでも減らせるように。

今が正解とはもちろん言いきれません。
それでも、模索する日々中で少しずつ息子にとって好ましい “自立と支援” のバランスに近づいてきたような気はしています。

そんなふうに日々を必死に歩む中、過干渉と簡単に片付けられると、心が擦り減ります。
当事者家族にしか分からないこともあると思うのです。
できれば、分からないことがある可能性を少しだけ想像して、必要以上に踏み込まないでほしいと静かに願います。

支援のバランスで反省したこと

とはいえ、最近自分でも反省したことがあります。

わたしは口は出すものの、手をあまり出してきませんでした。
手とは、差し伸べる手のことです。

口を出すのは前述のような、気づきを補助する意図があってのことでした。
ボーっとしている息子をこちらの世界に呼び戻すためです。

一方で、手を出さなかったのは、自分がすべきことは自分でやらせるためでした。
まるまる代わってやってあげることには、単純に抵抗があったのです。

また、別の記事に書きましたが、手を差し伸べるときにあなたを思いやってのことだという説明づけを都度しないと、母が好きでやっていることとして認識&処理してしまうのがASDっ子のあるあるだとの指摘を受けました。

どういうことかと言うと、母が自分の生活の一機能のようになってしまうということです。自分のことを勝手にやってくれる便利な人というような認識です。ルンバみたいなものでしょうか。
そこにある愛情や親切心はキャッチできないので、感謝の対象にはなりにくいということです。
そうさせないために、きちんと恩を着せる必要があるとのことでした。

手を出すなら恩を着せることもセット…。
それを自分に習慣づけるのが面倒なのもあって、手を出さず、自分でやらせる(&声かけする)方針を取りがちでした。

そんな中、最近、夫の息子への働きかけを見て、改めて感心したのですが…

夫の恩着せの、なんと爽やかなことか。

夫は、息子と同じASDタイプで、暗黙の了解の世界の住人ではありません。
“伝えないと分からない” のが彼の前提であり、だからナチュラルに恩を着せます。
残した実績をきちんと相手に認識させたいからです。

その恩着せの背景が分かっていなかった頃、わたしはいちいち引っ掛かっていました。
「毎回、男のくせに恩着せがましく言うなよ…。」と。

でも、他人同士、相違のあることを前提として暮らすなら、明確に伝えるのはちっともおかしいことじゃないんですよね、本来は。
かつて一世を風靡した「逃げ恥」でも、家事をやった方が、それをきっちり相手にアピールするルールで同居生活を運用していました。あの二人がしているとむしろ好印象ですらありました。

最近になって、口での支援(声かけ)の比率が多くなりすぎて、口うるさかったかもしれないなと反省しました。

フォローが必要なときには、どちらかといえば手伝ってしまって、爽やかに恩を着せたほうが息子の心的な負担が少ないであろうと思い至りました。

息子には確かに恩着せが必要。
でも、そうなると恐らく、息子も父と同じように外の世界でも恩を着せるようになるんだな…微妙。とも思いました。

であれば、

いかに “上質な爽やか” が身に着けられるか

は極めて重要だと思いました。

父がよい見本になってくれていると信じています。
母も、父を凌ぐほどの爽やかな恩着せを習得せねばと思っています。

自立と支援のバランス、支援方法のバランス、どのくらいの匙加減がよいのか、模索する日々をこれからも精進していきます。

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