ASDタイプに…教えるポイント、分かりにくくてゴメンなさい!リライトしました!
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ASDと差別の話

息子にASDの診断が下った時から、わたしは当事者家族になりました。
自分自身にも特性があると感じている点で、当事者であるともいえます。
どちらかといえば、被差別側となる確率のほうが高いかもしれません。でも、今回お伝えしたいのは、受けた差別の話ではありません。

主に、わたしがした差別の話になります。

自分の愚行を晒すことはあまり楽しいことではありませんが、わたしの過ちを通して、世の中に小さなプラスの変化が起きてくれることを祈ってお伝えします。

なんの影響力もないわたしのブログですが、でもゼロではない。
1が2になり、3になるかもしれない可能性を信じて、発信します。
最後までお読みいただけると嬉しいです。

差別される側の話

はじめは、差別される側の話から。
息子のASD診断後、「発達障がい」への差別を感じる機会がかなりありました。

素行の悪い子や問題行動のある子の話題になると、「発達障がい」に紐づけられることは日常茶飯事。要は、誰かの悪口に「発達障がい」がすぐに登場するということです。まぁ、なんとか耐えられる範囲です。

とはいえ、発達障がいについての無知を前提とした単なる悪口や偏見であることがほとんどであり、当事者家族としては耳にするたびに悔しく悲しい思いを味わうことに変わりありません。例え話題の中心が我が子、夫、自分ではないとしてもです。
「発達障がい」への差別意識や偏見を感じる度に、我が子の行く道の険しさを思い知らされるようで、削られるのです。

でも何より辛いのは、医師や臨床心理士など、いわゆる発達障がいについてのスペシャリストが発達特性のある人を悪く言う場面に出くわした時です。ネット上には、医師による目を疑う発言が転がっていたりもします。

当事者家族は、診断を受けてからは医療機関にすがって生きているといっても過言ではありません。その拠り所が味方ではない姿を目の当たりにした時、本当に絶望的な気持ちになります。こちらに関しては「えぐられる」といったほうが実質に適っているかもしれません。

擁護してくれないまでも、せめて客観的立場をとっていてほしいと切に願います

特性についての専門知識をお持ちの方による、発達特性をもって、その人の人間性を否定するような発言は本当に聞くに堪えません。本来、絶対にあってはならないことだと思います。

なぜなら、その信頼ある立場からの発言が、“あらぬ偏見 新たな差別 を生む可能性があるからです。
特性について理解を得ていない人に「専門家が言っているのだから、この人(の特性ゆえの言動)は非難されるべき(もの)なんだな。」と思わせる危険性があるということです。

お願いだから、自覚を持っていただきたいです。
この思いが通じることを願っています。

急な展開ですが、次に、差別する側の話をします。

差別する側の話

唐突ですが、わたしは、昨年、自分の差別感情とはじめて向き合うことになりました。
50歳を目前にしているのに、差別が何なのかすら理解していなかった自分を自覚したということでもあります。自分の差別への無知を思い知りました。

それまで、差別について深く考えたことなどありませんでしたが、何の根拠もなく、感覚的に…

差別には “悪意が伴うもの”

と思い込んでいました。

差別とは、悪意ある人、人格的に問題のある人が意図をもってするものであって、自分とは無関係自分は差別などしないと信じて疑っていませんでした。

ところが、そうではない現実の自分を思い知らされる出来事が起きました。

ある日、わたしが最も信頼を寄せる人の口から、「発達障がい」について、偏見とも取れるような発言がありました。勝手な思いですが、いちばん理解していて欲しい人だったので、悩んだ末、その日の夜に本人に正直な思いをぶつけてみました。決して謝罪を求めたかったわけではなく、理解してほしかったのです。

聡明で誠実な彼女はわたしの思いを受け止め、そう感じさせたことへの謝罪と、発達障がい等に対して差別する意思がないことの説明を、あるエピソードを交えてしてくれました。

職場で雇用された双極性障がいをお持ちの方について、彼女は、同僚としてうまく協働するために理解を進めるべく自分なりに色々と努力しており、差別意識は持っていないつもりだと。

わたしは、ここで衝撃を受けました。彼女の言葉に対してではありません。
その日の昼間、彼女から、双極性障がいを持つその方のお話を聞いた時の自分の反応、発言を思い返して、衝撃を覚えたのです。

わたしは、同じ日に、差別される側として訴える一方で、差別する側の発言をしていたのです。

障がいをお持ちの方が入られたことで、友人である彼女の勤務状況が大変になることを心配しての発言ではありましたが、わたしは「雇用主は、そんな人を職場に雇い入れるべきじゃない」等と発言していたのです。

わたしという人間は、友人に対しては優しいカタチのつもりでも、その双極性障がいをお持ちの方に対しては、差別的なカタチをしていたのです。
ご本人、ご家族が聞いたら、どんな気持ちになるだろうか…

自分の愚かしさを心底恥ずかしいと思いました。
もちろん、双極性障害をお持ちの方への悪意などありませんでした。
まさか、自分が差別を働くなんて想像もしていませんでした。

差別は、ほとんどの場合、こうやって “無自覚になされる のだ。
変な話ですが、その時初めて、実感を持って差別の成り立ちを認識したような気がしました。

差別には、必ずしも “悪意 が伴わない
多くの場合、無自覚になされる

差別について、考えるきっかけを与えてくれた友人に本当に感謝しています。
そもそも、単なるエピソードトークではなく、もしかするとわたしに自分を省みろとメッセージしてくれていたのかもしれません。

この先は、他者に対して丁寧に自分に本当に注意深く生きていかなくてはいけないと強く思いました。

わたしが実際にしてしまった差別の話

差別についてのこの気付きを機に、いろいろと考えるようになりました。
これまでの自分が人を無自覚に差別するようなことはなかったか改めて省みると、かつての自分の夫に対しての働きかけは自覚なき差別だったんじゃないか…と気が付きました。

差別の背景にあった、見えないASD特性とカサンドラ症候群

言い訳にならないかもしれませんが、わたしが差別的に振る舞った背景には、わたしがカサンドラ症候群だったという事情があります。
まず前提として、わたしがカサンドラということは、つまり夫にASDの特性があるということですが、「夫はASDなんじゃないか…」と長年思いつつも、診断を受けているわけではないので、夫の言動を特性をふまえて理解しようという姿勢や準備がわたしにはありませんでした。

※カサンドラ症候群とは、夫婦の一方がASDタイプである場合に、ASD特性により夫婦間の心の交流がうまく持てないがために、他方のパートナー(夫・妻)に生じる心身の不調のことです。

妊娠、出産、育児、結婚生活には様々なライフステージの変化がありましたが、状況把握が困難なASDタイプの夫は、自らの力でその変化に対応することはできず、自動的に完全ワンオペ家事育児担当となったわたしへの気遣いを見せることもできませんでした。

次第にわたしは、夫をただただ思いやりのない人と位置づけ、言われないと何もやれない使えないヤツというような侮蔑的な扱いをするようになっていきました。長年の憤りが強い怒りとなり、罵倒したり、暴言を吐いたりもしていました。
これがわたしのした差別です。

夫に対する差別的な振る舞いを肯定するつもりはありませんが、わたしが悲しく辛い日々を送っていたことも事実ではあります。

長年、カサンドラ状態だったわたしは、息子の受験後、ついに我慢の限界を迎えました。
本気で離婚を考え、その前提で、話し合いの場が何度か持たれました。夫はその頃から、二人で決めた話し合いの日以外、自室に閉じこもるようになっていました。帰宅するとそそくさと逃げるように…

夫婦関係が極限の状態にあるのに、なぜ十数年も連れ添ったわたしとの話し合いではなく、ひたすら引き籠ることを選ぶのか。それまでとは比にならない、言葉に表せないほどの憤りと、想定外すぎる行動への強烈な違和感のようなものを覚えていました。

夫への理解が進んだ今では、その不可解な行動も説明がつきます。

ASDタイプの夫にとって、概念的なテーマについて思考すること自分を説明することは、そもそもどんなに一生懸命に取り組んでも上手くこなすことができない課題なのです。また本人は、自分の中に漠然とした苦手意識はあるものの、できないのが特性ゆえのものだという自覚などなく、対策の打ちようがないお手上げ分野だったのです。
そこへきて離婚危機に瀕していよいよヒートアップして対話を求めてくる妻。妻が期待するレベルで応えることなどできないのは明らかで、夫には “逃げ込む” 以外の選択肢がなかったのです。

【実例】ASDタイプの夫への “見方” を変えたからできた、脱・カサンドラ

離婚寸前、崖から転落するまで本当にあと一歩のところで、わたしを踏み止まらせたのは、十数年、毎日見てきた彼からわたしが感じ取っていた彼の善意のようなものでした。簡単にいうと、どうしても 酷い人” と結論づけられなかったということです。

極めて直感的なものですが、わたしは自分と彼をもう一度信じることに決めました。
となると、現実的に事態を打開するにはどうすればいいのか?を考えなくてはなりません。

考えに考えて、自分を分析すると、わたしが苦しいのは被害者意識に苛まれて、もはや憑りつかれている域に達しているからだと気が付きました。
長年、辛くて悲しかったのはわたしにとって紛れもない事実で、動かすことのできない過去です。

でも!

わたしが被害者だとするならば、夫は加害者であるという構図になります。
果たして夫は加害者なのか?そこから自問自答を繰り返しました。

いろいろと理解した今は断言できます。
もちろん、夫は加害者ではありません。
従って、わたしは被害者ではありません。

これまで辛く悲しかったのはわたしにとっての事実ではありますが、だからといって彼は意図して危害を加えていたわけではなく、加害者ではありません。

帰結するようで、しないのです。

後述しますが、『やさしくない』というのは誤解であり、『やさしくない』ように映る言動しかとることが『できない』だけなのです。

夫は加害者ではなく、できなくて困っている人。それが腹落ちしました。

同じことが同じようにできる人だと誤解していたので、意図をもって『やらない人』に思えてしまって、わたしは痛んでいたのです。
はじめから『できない』と知っていたらこんなに痛むことはなかったと思います。

『できない』ということを本質的に受け止めることで、自分の被害者意識払拭することができました。
被害者意識払拭できたことで、カサンドラから脱することができたといっても過言ではありません。

もし結婚後に夫の目が “見えなく” なったら、わたしは彼と離婚するだろうか?いや、しない。
結婚後、十数年経って、夫が『できない』と分かっただけ。
夫との離婚を決断するということは『できない』人を切り捨てるということであり、わたしはそうありたくないと思いました。
また、夫と息子が同じ特性なのだとしたら、離婚するということは夫だけでなく同時に息子を否定するということでもあります。
もはや “離婚しない” の一択でした。

夫が『やれなくて自分でも困っていた人』だと理解したところで、次に、夫の『できない』に対して、なぜわたしの言動が差別的な方向へと突き進んでしまったのか、同じ過ちを繰り返さないためにはどうすればよいのかをわたしなりに考えて、気が付いたことをお伝えします。

『誤解解消』と『できないの理解』が、ASD差別抑止のキーワード

なぜわたしの怒りは増幅し、差別的な言動にまで至ってしまったのか。
それは、発達障がいが誤解されやすく、理解されにくいものだからです。

では、どんな誤解をされやすいのか、なぜ誤解されやすいのか、そしてなぜ理解されにくいのか、について引き続きお話しします。

ASDへの誤解の “どんな” “なぜ”、そして “理解されにくい” 理由

まず、一番されやすい誤解は『やさしくない』だと思います。

なぜ『やさしくない』と誤解されてしまうのかというと、他者の気持ち状況をつかむことが難しく、多くの人が難なくできる「相手が求めている反応を示すこと」ができないからです。
身近な人の悲しみや、困っている状況に気づかず、良好な関係を構築、維持するための適切な言動を取ることができないために酷い人と誤解させてしまうのです。

「相手が求めている反応を示すこと」ができない特性は、下図でいうところの、わかりにくい『できない』にあたります。
わたしの場合、求めている反応を示してくれない夫に、不信感や憤り、最終的には強い怒り、孤独感や虚無感まで抱えるようになり、下図の「ものを探せない」「何度も同じ失敗を繰り返す」等のわかりやすい『できない』に対して苛立ちをぶつけることで、その鬱屈とした気持ちを吐き出すような構造になっていたのだと振り返ります。

ASDの特性は様々だが、わかりにくい「できない」と、わかりやすい「できない」があり、わかりにくい「できない」によりダメージを受けた妻が、その鬱憤をわかりやすい「できない」を攻撃することで解消していたことを説明する図
図1

夫の『できない』を『やらない』だと長年思っていたわたしは、図のように「なぜちゃんとやらない」のかを問い詰め続けていたのです。

ここに実は、発達障がいへの誤解を強めてしまう、もう一つの要素が潜んでいました

誤解を強め、周囲の理解を阻害する、ASDならではのもう一つの要素

発達特性のある人は凸凹さんと例えられることがありますが、その凸を見ていると凹があるようには思えない、つまり「他者の気持ちや状況をつかむことが難しい」ようにも、「ものが探せない」ようにもみえず、できないわけがない、努力すれば何とかなりそうな得手・不得手のレベルのものと誤解させる要素を孕んでいるのです。

御多分に漏れず、我が家でも誤解が誤解を生み続け、わたしは夫の人間性を疑って結婚生活の大半を過ごし、『できない』だなんて微塵も思っていませんでした。

『できない』のだと分かってからも、本当の理解者としての姿とは程遠く、“頭では分かっている” レベルからなかなか抜け出せないでいました。

理解度をもっと深めて、感覚的なレベルで捉えられないとダメなんだ。
でも、どうすれば?

長い時間、考えに考えて、次にご紹介する『できない』の例に行き着いたことで、このできないようには見えない『できない』をやっと本質的に自分に理解させることができたように思います。

ASDの『できない』を本質的に理解するための例

見えない、聞こえない 等

これらは世に知られている『できない』の一例です。
そして、これらの『できない』は、ご存じの通り、努力ではどうすることもできないものです。

ASDの「人の気持ちを汲めない」「状況が読めない」もそれらと同じような『できない』なのですが、それが極めて理解されづらいのです。先述の通り、その難しさは、わたし自身が身をもって知っています。なんせ理解するまでに十数年もかかりました。

ASDの『できない』は、確かにできてるっぽく見える場合もあります。そして、いずれ難なく『できる』ようになるような錯覚を抱かせるのですが、そうではありません。 

逆上がりのような『できない』とは違います。
逆上がりは、『できた』後には難なく『できる』ようになるのではないでしょうか。筋力が衰えた、体重が急激に増えたなど、条件が極端に変わりさえしなければ。

でも、ASDの『できない』は、難なくできるようになることはありません
いつも “難” がつきまとう、難ある『できる』
だという点で、逆上がりとは違います。毎回、初めてできた時と同じ精神力と集中力を要する、そんなしんどい『できる』であり、また、あくまでも『できる風』の枠を超えません。
実社会で同じような毎日を生きることすら、とても大変なことだといえます。

以下記事でも、その “しんどい『できる』” について触れています。

差別的な意識を生みやすい、2つの評価パターン

自分のこれまでの反省から、差別的な意識が生まれやすいのは、以下2つのパターンで対象を評価する時だと考えました。

  1. 対象の1点だけに着目して評価を下す時
  2. 合理的な理由なく、比較対象の一方の基準絶対的な正として評価を下す時

ちょっと小難しい感じになりましたが、分かりやすく図などを用いてご説明しますので、もう少しお付き合いください。

対象の1点だけに着目して評価を下す時

本来『できない』というのは、その人の “人となり” の一部でしかありません。
全体を見ずに、『できない』その1点だけを見て、その人を判断する時に、不当な評価につながりやすいということです。(図2)

二者を重ねてみた時、全体を見れば、二者の間にあるのはただの相違です。ブルーが優れているところもあれば、イエローが優れているところもあります。
でも、他の点を見ずにどこか一点にだけ着目し、対象を比較、解釈するから、優劣や善悪の歪んだ評価が生まれるのだと気づきました。

均一な凹凸のブルーと、凸凹の変化が大きいイエローを重ね合わせ、全体を見れば、二者の間にあるのはただの相違であるが、どこか一点だけを見て比較するとき、優劣や善悪の歪んだ評価が生まれることを表現した図
図2

わたしの過ちは主にこの視点のせいでした。夫の『できない』ばかりに着目してロックオンしていたのです。一方、夫は結婚以来一度もわたしの凹を責めたことなどありません。
下記事でご紹介していますが、「どうして失敗(できない)ばかり責めるの?」と夫が時々訴えていたのを、申し訳なく思い返します。

合理的な理由なく、比較対象の一方の基準を絶対的な正として評価を下す時

もう一つは、二者を比較して評価する時に、一方を絶対的な正とすることを前提にして評価するパターンです。
単なる相違ではなく “優劣” や “善悪” の評価につながりやすいと思います。

例えば、定型発達の基準を正としているから、発達障がいが「障がい」に位置づけられている。本質的には発達障がいは「障がい」ではなく「相違」だとわたしは考えます。

定型と言われる人の比較的凸凹が少ないカタチと、凸凹の多い発達特性のある人のカタチを重ね合わせ、双方に優も劣もあることをわかりやすく示した図。
定型発達が優という前提で発達特性のある人を測るときに不当な評価につながる。発達特性のある人の優は見過ごされ、劣ばかりが取り沙汰される。
図2


凸凹の話とは少し違うかもしれませんが、物事を判断する時の基準の設定の重要性について、わたしの実体験を交えてお話しします。
以前勤めていた会社でのできごと。ランチ明けに、中国出身の方と同じPCのモニターを見ながら打ち合わせていたところ、彼は不意にゲップをしました。
正直驚きましたが、日本と中国でのゲップの意味合いの違いを知っていたので、別に腹は立ちませんでした。身も心も引きはしましたが(笑)。
もしここでわたしが日本の基準を絶対的な正として扱って彼を評価したなら、彼はとんだ無礼者になってしまいます。でも彼の国ではさして無礼なことではなく、実際にわたしの知っている彼は温厚な紳士でした。
郷に入っては郷に従えという話もありますが…。
でも、日本のマナーを教えてあげる必要はあっても、日本の価値基準で彼をこき下ろす必要などありませんよね。

判断指標として基準をどう設定するのか』は何かを判断する上で、とても重要なことです。

こんな偉そうなことを言っているわたしですが、前述の通り、わたしはわたしの基準を正として当てはめて、夫を “善悪” のとして扱っていました。

わたしの基準のみを、絶対的な正として彼を測ったら、そりゃ当然、わたしが “優” で “善” になります。彼の言動を、彼の基準でも測っていたなら、また別の評価が下されるはずでした。

本当に、わたしは “優” で “善” ?
本当に、彼が “劣” で “悪” ?

その自問ができていませんでした。
そもそも、なぜこちらの基準に当てはめたのか?
わたし、その正当性について、道理にかなった説明をすることができません

ごくナチュラルに自分の基準のほうを採用したのは、単純な主観の押し付けの他に、恐らくマジョリティの理論が働いたと思います。でも、そこに正当性はありません。多いから “優” で “善” などというロジックは成立しません。

これこそが差別でした

また、そもそも発達特性のある人たちが果たして本当にマイノリティなのか?についても、実は疑問に思っています。
定型発達の位置づけで暮らしているものの、明らかな特性を持っている人をわたしは何人も知っていますが、その方たちはマジョリティ側(定型発達)にカウントされています。夫もその部類です。何ならわたしもそこに含まれるかもしれません。

また、定型発達といっても、明確に定義できる人などいないと思っています。
定型っていったい何なのか?とも、よく思います。
定型と呼ばれる人のカタチも様々で、“絶対唯一の普通のカタチ” なんて存在しませんよね。

定型発達の基準といっても、誰も明確に定義できないし、定型にもいろいろなカタチがあることを表現する図
普通のカタチもひとつじゃない。

わたしたち夫婦は脳のタイプが違う。二人の間にあるのは相違だけでした。

相違とは、“互いに違う” ということ。

こちらから見て、あちらがナンカ違う
のと同様に
あちらから見ても、こちらはナンカ違う

ただ、そういうこと。

誰かを笑う自分、誰かを咎める自分注視する必要がある

そこに優劣、善悪の尺度を持ち込んでいる自分は、本当に正しいか?
自問自答できる自分でありたいと思っています。

差別は無知無理解から生まれること、そして恐らくほとんどが無自覚に行われることを肝に銘じて。

まとめ

ASDの『できない』が理解されづらい背景には、ASDがどんな困難なのか、なぜそうなるのか等の「理解」が全くと言っていいほど進んでいないのに、その呼称、特性イメージ(こういう人らしい)についての「認知」だけが先行しているという、わたし自身を含め世間一般へのASDの認知状況の問題もあると思います。

知っている理解しているには大きな隔たりがあります。

「認知」と「理解」の区別について、辞書では以下のように定義されており、比較してみると双方の違いがよくご理解いただけると思います。

り‐かい【理解】〘名〙
内容、意味などがわかること。他人の気持や物事の意味などを受けとること。相手の気持や立場に立って思いやること。了解。

にん‐ち【認知】〘名〙
心理学で、知識獲得の過程とそれによって得られた知識をいう。

精選版 日本国語大辞典「理解」の解説

言葉の定義からも分かるように、【認知】は単なる知識で、相手が不在でも成立しますが、【理解】には相手の受け止め相手への思いやりが必要になります

当事者家族であっても、こんなに難易度の高い『理解』。あまねく広く、当事者と同等の『理解』を求めるのは高望みだと分かっているつもりです。『理解』を得られないとしても、責めることなどできません。

ただ、知られざる『できない』がこの世に存在することを知ってほしいと当事者・当事者家族が願っている、そのことだけでも知ってもらいたいとは思っています。

ASDのみならず、発達障がいへの理解が得られ、誤解、偏見、差別が一つでもなくなることを心から祈っています。
すべてのはじまりは、知ってもらうことから。

  • わかりにくい『できない』を抱えている人がいるということ
  • 人間は、同じようでいて、実は同じではないこと = “タイプ違い がいるということ

どうか知ってもらえますように。
長くなりましたが、最後までお読みくださってありがとうございました。

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