今回は、カサンドラ症候群だったわたしのお話、第2弾です。
カサンドラ症候群というのは、夫婦の一方がASDタイプである場合に、ASD特性により夫婦間の心の交流が持てないがために、他方のパートナー(夫・妻)に生じる心身の不調のことです。
夫には診断はありませんが、ASD特性があり、社会性に課題があると妻は長年思っています。
本当に長い間カサンドラ症候群で苦しんでいたのですが、今ではウソのように穏やかな夫婦関係になっています。
カサンドラ症候群からわたしは脱しました。
劇的ではありませんが、夫婦の間に変化がありました。
今回は、そのお話をさせていただきます。
カサンドラ症候群からどうやって脱することができたのか
カサンドラから脱出できたのは、夫についての“ものの見方”が変わったからです。
“ものの見方”が変わる前は、夫の不満点にひたすらロックオンしていたのですが、その目線を外して違う角度から見ることができるようになった。そんなイメージです。
我が家の夫婦間に巻き起こる問題は、だいたいは夫の “想像力のなさ” に起因するものでした。
なんでこのタイミング?…空気読んで!?
は?自分さえよければいいの?…自己中!?
父・夫としての振る舞い
ずっとそんなものを求めていたと思います。
具体的には、協調性、主体的な協力、気遣い、いわゆる社会性というやつです。
(社会性:社会への対応力・適応力、つまり状況や場面に応じられる力)
さらに、それらを世間一般と同様のやり方で、かつ同等レベルで、夫がやれるようになることに捕らわれていたようにも思います。
それはなぜか?
わたしは、それこそが愛情、優しさだと思っていたからです。
それがないということは、優しくないということ。
家族、そして妻であるわたしへの愛情の欠如なのだと思っていたのです。
でも、わたしが求めていたその部分は、夫にとっての一番の凹でした。
大人になってから、その凹を急にどうにかすることなどできません。
息子の中学受験を終えて、給料をもらう働き方からフリーランスになり、時間的な余裕がかなり増えたことで、息子の特性について遅ればせながら本腰を入れて学ぶようになり、その副産物で夫への理解が深まりました。
そして、たどり着いた結論は、
凹であり、できないのだ。
そして、“社会性” と ”優しさ・愛情” はイコールではない
でした。
自分にも、誰にでも、凸凹がある。
そのあり方が人によって違うだけ。
それなのに、わたしは、たまたまわたしが凸で、夫が凹だったそこに執着して、夫を人でなしのように責め立てて、変わることを要求し続けていたのです。(以下イメージ図)
今では、愛情はその人の真ん中にあって、それをどこからどう出すかは人それぞれ。
そんなイメージで暮らしています(笑)
父・夫としての振る舞いをするには、高度で複雑な想像力が必要です。
夫はそれが得意ではない、そこは苦手分野なだけ。
そう意識を変えられただけで、自分が楽になりました。
今では凹をどうにかしようと思わなくなり、そして、その代わりに工夫をするようになりました。
それが、2つ目の “なにを変えたのか?” のお話です。
カサンドラ脱出後に意識して変えたこと = アイメッセージ
空気を読んでほしい
察してほしい
自発的に動いてほしい
まず、こういった想像力を前提とするものをすべて封印しました。
そして、これまではできない夫に対して
なんでやらないの?
なんでできないの?(=誠意をもって自分事としてやらないの?)
と詰ったり、
あなたは、夫として●●すべきでしょ!
あなたは、父として●●できてない!
と詰め寄ったり。
このメッセージの発信の仕方もやめました。
優しくないわけでも、愛情がないわけでもなく、想像力を働かせるのが苦手なので、
わたしの望みが分からなかっただけ
まず、その前提に立つこと。その上で、アプローチを変える。
アイメッセージに切り替える
察して欲しさを滲ませた、奥歯にものが挟まったような比喩的な物言いではなく、
“してほしいこと” を率直に簡潔に伝えれば、快く動いてくれるのです。
わたしは、●●をしてほしいの。
わたしは、●●をしてほしくないの。
この、「わたしは・・・」というメッセージ形態をアイ(I)メッセージと言います。
昔からその存在を知りつつも、どういう必要性でそんなことしなくちゃいけないの?と若干斜に構えていたのですが、今ではその意義と効果を肌で感じています。
同じ前提、わかる前提に立たないのが、アイメッセージ。
思いやりのあるメッセージ形態ということだったのです。
カサンドラだった自分も辛かったけど、夫も辛かった。
今では、本当に申し訳なく思っています。
“できない” なんて知らなかった、思ってもみなかった。
そんな自分のことも、仕方なかったと許そうと思います。前に進んだから、それでよしとする。
夫自身も自分ができないことに気付いていない、発達の困難はそこが難しいところです。わたし自身にも、最近になるまで自覚していなかった発達特性がありました。
これまで「無知の知」を意識して生きてきたつもりでしたが、まだまだ知らないことがたくさんあるってことですね。
この一連のわたしの変化の話を夫にしているわけではないのですが、夫婦としてのスタートラインにやっと立てたと、夫も同じように感じているような気がします。
こういうことを考えるようになって、もう一つ気づいたことを備忘録として、ここに記します。
自分の凸を能力とみるか、余力とみるか、そこに大きな違いが生まれる