ASD公言に消極的な理由【2】
公言するイコール発達障がい者として生きていくことを選択することだと思えるから
診断を受けたときに、医師が「医者にも発達特性あるなって思える人がいっぱいいます。あと、官公庁とか。早稲田、慶應にもゴロゴロいますよ。」とおっしゃっていました。
息子の特性について理解が進んだ今、過去を振り返ったり、周囲を見渡したりしてみると、先生のおっしゃるとおりゴロゴロといっても過言ではないほどに特性のある方にお目にかかります。
印象としては、発達特性のある人は、もはや少数派でもないのでは…とすら思います。
確かに、優秀な人にASD傾向のある人が多いと思うのです。
派遣社員として勤務していた大企業にも、
文化祭に出向いた偏差値の高い私立中学にも、
上記のような大学にも、
発達特性の見受けられる人が確かに多かったのです。
ここでポイントは、そのほとんどが発達障がい者として生活していないということです。
- 自分の特性を認識していないケース(家族も気付いていないor家族が伝えていない)
- 知っていて敢えてただの個性として自己プロデュースしているケース
様々だと思いますが、公言せずとも生きていけているということです。
自分にもやや特性があり、たくさん苦労もしましたが、確かに生きていけてます。
現時点でASDを公言するということは、今の定義を受け入れて発達障がい者として生きる決断をすることだとわたしは思っています。
そして発達障がい者として生きることに、わたしはそれほどのメリットがあると思っていません。
残念ながら社会が公正公平にはまだ存在していないからです。
定型発達といわれる枠から自ら外れるということは、雇用や賃金、その他いろいろな面で、対等な社会的地位を得られなくなる可能性を受け入れるということだと感じています。
知人で、かなり強めにASD特性が出ていて、わたしの印象では完全にASDであろうという方がいます。でも、その方は世に知れた大企業にお勤めで、立派に勤続数十年になります。
なんだかんだ社会で上手くやっているようです。
そういう例から考えても、社会に出てみて、どうしても折り合いがつかないときに初めて、発達障がい者として生きる道を検討するのでも充分ではないかと思うのです。
単にそこから逃げる(場を変える)という選択肢もあります。
ぜんぜんありだと強く言いたいです。身を転じられるのも立派な才能です。
生まれながらに、自分とズレのある社会に自分のほうが合わせることを運命づけられ、幼い頃から大変な思いをしながら生きているのです。
日本に定着している “続けることの美学” を押し付けずに、親は我が子が自分に合う場所に巡り合うことをサポートすればよいと思っています。
世の中には多種多様な職種があります。
サラリーマンだけではない、他のいろいろな選択肢もあります。
また、コロナの影響で、以前とは働き方も変わっています。
オンラインでやり取りすることが増え、自分のペースで熟考してからコミュニケーションを取ることができるなど、リアルな時空間で働く時代から、シフトしてきていると思っています。
これはASDタイプには生きやすくなった面があるように思います。
長くなりましたが、そういうわけで、わたしは、息子がASDをカミングアウトしないでも生きていける道を下支えしていこうと考えています。
もちろん、息子の将来の判断に委ねます。