我が家、息子がASDの診断を受けています。
だとするならば、夫も間違いなくASD。息子の診断を受けて以来、その前提で夫とも向き合っています。
ASD特性がまだまだ理解できていなかった頃、よく夫の行動に困惑することがありました。
その多くは、良好な夫婦関係を継続維持するために、互いの価値観を共有しようと対話を求めるような場面でした。
なぜ困惑するかというと、わたしはより良い関係のために働きかけているつもりなのに、夫の反応は友好的とは程遠い、拒絶や怒りを表すのが、お決まりのパターンだったからです。
対話を持ちかけると、夫からのリアクションが『反撃』になる謎
わたしは思いや願いを吐き出すのですが、その発言の背景には、それまでの不満や、悲しい気持ちや寂しい思い、そんなものが積もり積もっているわけです。
通常の会話よりは、少し感情が高まっている状態での働きかけであり、確かに相手も感情的な反応を返しやすい状況かもしれません。
とはいえ、度を超えた強い反応に、はじめは驚きを隠せませんでした。
困惑、憤り、悲しみなど、人間の様々な感情は、どれも最終的には「怒り」として表出されることが多いそうです。
これを二次感情というのですが、わたしも切実に訴えかけているときには、教科書通りに「怒り」や「憤り」が滲み出ていたと思います。
また、メッセージの内容・形態は、とても婉曲的で、相手に察することを求めるようなものであることが多かったとも思います。
わたしに限らず、日本人は自分の思いをストレートに相手に伝えることには不慣れであり、文化的・歴史的にも、遠回しな表現で、相手に察することを求めるようなコミュニケーションに馴染みがあると思います。特に女性は、横のつながりの中ではそういうコミュニケーションを取りがちなのではないでしょうか。
また、察してもらう前提のコミュニケーション手法をとるのは、家族ゆえの甘えのほかに、相手の愛情を測る目的もあると思います。察してくれた度合い(自分への理解度)が高ければ愛情が深いと思えるからです。
対話を持ちかけられたときに『反撃』に出るというディスコミュニケーションが発生してしまうのは、そのような “察してくれること” を前提としたコミュニケーション手法が、ASDタイプの人にとっては難解極まりない、理解不能なものだからなのです。
なぜ対話を欲すると、『反撃』に出られてしまうのか?図などを用いて、なるべく分かりやすくお伝えしたいと思います。
対話を持ちかけられると『反撃』してしまう理由
まず、「反撃」についてご説明します。
対話で投げかけられたメッセージの内容に対して異を唱えるということではありません。それはメッセージを受け止めた上での反論であり、それとは違う点で「反撃」と表現しています。
対話を持ちかけられたこと自体に憤りを感じているような、そんな印象です。
ここで確認ですが、「反撃」に出るということは、『攻撃された』と認識してしまっているということです。
なぜ攻撃されたと思ってしまうのか?
ASDタイプの人は、表面化しない他者の気持ちを想像することが難しく、表面的な情報しかキャッチできないことから、相手の『切実な訴え』を攻撃と受け取ってしまう傾向があります。(図1)
具体的には、発言の裏側にある様々な感情を推測することができず、明確に発せられた言葉や表面的な表情や声のトーンなどの情報しか受け取れません。
先述の通り、不満や悲しみが蓄積した後の訴えは二次感情とともに表出される確率が高く、怒りが滲んでいるため、ASDタイプの人は、その怒りだけをキャッチしてしまう可能性が高くなります。その結果、相手からの攻撃とみなしてしまうのです。
「理解してもらう」ことが目的なのであれば、同じ趣旨の訴えは、以下のように伝え方を変えれば問題は解決します。
感情を交えず、直接的な表現で、率直に願いを伝えればいいのです。(図2)
別記事でもご紹介しましたが、アイメッセージというやつです。
ASDタイプにとっては、攻撃的質問となってしまう投げかけの例
上の図1のやりとりのうち、「どうして●●してくれないの?」という投げかけには、もう一つ落とし穴があります。
これを言われたASDタイプは「質問」に答えようと、必死で考え始めます。
「どうして●●してくれないの?」は、発言者にとっては「切実な訴え」です。そのことを定型タイプは難なく理解できると思いますが、“疑問形” であるがゆえに、ASDタイプには「質問」としか思えず、一生懸命に質問への返答を探しはじめます。また、こういった概念的で、自己分析を要するような質問に答えるのは、 ASDタイプには難しい課題です。
加えて、考えながら並行して相手の発言に相槌を打つなどの反応を示すのは、いわゆる「マルチタスク」であり、ASDタイプはこれを苦手とする場合が多いです。
そのため、「切実な訴え」を“疑問形”で投げかけられた後は、質問に答えるべく考えることに集中する時間となり、答えが出るまで沈黙することになります。
意図して沈黙を決め込んで、対話を拒絶しているわけでも、無視しているわけでもないのですが、沈黙された背景にこういった事情があることを知らなかった頃、わたしは都度とても傷ついていました。
よくやりがちな疑問の形態で訴えるアプローチは封印しなくてはならないことに気が付いてからは、意識しています。
とはいえ、無意識にナチュラルに出がちなアプローチではあります・・・(難)。修行修行。
まとめ
最近、折に触れて、空気を読むとか、忖度とか、皆が同じであることを大前提とするコミュニケーションを抜本的に見直すときが来ているなぁとつくづく思うのです。
この手法は封建時代からの負の遺産なのじゃないかとわたしは思っています。もともとは伝える側(強者)の便宜を図るためもので「言いづらいことを言わせるな、察せよ。」という………ひどいのは分かってる、でも、これは決定事項。言いづらいからはっきりとは言わせるな………的なものなんじゃないかと(笑)
それがあまりに浸透しすぎて、文化として根強く残ってしまったのではないかと考えています。
悪しき慣習として見直していかないと、日本はますます世界から取り残されていくと個人的に危機感を感じています。
本来、伝える側が受け取る側に負担をかけないコミュニケーション=率直に伝えることを心掛ければ済むだけの話なのです。
今、そしてこれからのキーワード “多様性” “ダイバーシティ”。
これらに対応できるのは、察する文化ではなく、正確、確実に伝わることを目指すコミュニケーションです。
文化、価値観、認知など、相手が自分とは違う可能性を前提にして、相手に配慮したコミュニケーション手法をとれば、多様な受け取り手とスムーズに交流することができます。
異文化圏の人、発達特性のある人が、困らずに済むのです。
もちろん、意識改革が必要なのはわたし自身を含めての話です。
意識せずに過ごしていると、日々当たり前のように明確にメッセージしないやり方でコミュニケートしてしまいます。
意識して、受け手に負担をかけないコミュニケーションを日々を模索していきたいと思います。
ちなみに、最後に特筆すべきことがあります。
ASDタイプの人は反撃しがちだけど、自分から攻撃を仕掛けてくることはありません。
夫とは20年近い付き合いですが、振り返っても『なんで~しないんだ!』『~するべきだ!』などと責められた記憶がありません。“反撃しがち” というのはあくまで防衛反応であって、攻撃的な人だということでは決してありません。
これまでの子育ての学びや気付きをこのブログでご紹介することで、同じ境遇の方のお役に立てたらうれしいです。