今回は、ASDタイプ息子の話ではなく、わたし自身のお話です。
先日、実はわたしも知能検査(WAIS)を受けてきました。
わたしが検査しようと思った経緯
わたしは、自分の心の整理のためにカウンセリングに通っています。
カサンドラ時代の末期、このままでは自分が壊れる…そう思ったのがきっかけです。通い始めたとほぼ同時にカサンドラ状態から自力で脱却してしまったので、そこで卒業してもよかったのですが、その後も平静を保つための拠り所として引き続き通っています。
そういう流れがあって、だんだん話題の中心は、カサンドラの原因であった夫からわたし自身のことへとシフトしていきました。
このブログでちょこちょこと触れてきましたが、わたし自身にも特性があると思っており、もし特性があるのなら、それを自覚せずに息子に向き合っていることに弊害がある気がしていました。
そんな折、ネット上の、自身にもASD特性(想定外のことに対応するのが困難)があるママのコラムで、“子どもがパニックになると自分もパニックになりがちだ” とのコメントを目にし、わたしにもそういうところがあるかもしれない…と思い、先生(臨床心理士)にご相談して検査を受ける運びとなりました。
検査前、自分の予想
いろいろと困り事はありましたが、自分的に一番困り感が強かったのは “記憶” の問題です。
高校時代、暗記系科目にまったく太刀打ちできなくなり、勉強への気力を完全に喪失して学校自体もドロップアウトしかけていました。APDも、わたしの場合は記憶の機能の問題が大きいのではないかと思っています。
これらのことから、おそらくワーキングメモリが低いんだろうなと予想していました。
また、太刀打ちできなかったというのには、興味関心のないことについて、自分の意思で集中を維持することが極めて困難だったという面もあることから、ADHD(注意欠如・多動症)の特性もあるのだろうと思っていました。
意外な検査結果と知らなかった人間のチカラ
今回の検査で自分の特性を知れて嬉しい半面、特性を目の当たりにしたときのショックもあるのだろうなと、複雑な気持ちで結果を待っていました。
ところが数日後、思いもよらぬ結果に、まったく違った意味でショックを受けました。
数値的に何も問題のない結果が上がってきたのです。
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じゃあ、これまでのわたしの困り事は、一体何だったのだろう???
そのままその疑問を先生に投げかけたところ、今の数値が生来のものというわけではなく、“攻略した結果” だということでした。
あまりに驚いたので(検査結果を説明してくださった先生を疑ったわけではないのですが)、他の臨床心理士にも検査結果の意味についての教示を受けたところ、まったく同じ回答が返ってきました。
「方略を見出したのだ」と。
つまり「凹特性がなかったというわけではなく、現在に至るまでに凹特性を攻略した」ということなのだそうです。
確かに、先生のご説明の通り、わずかに凸凹しているのが読み取れます。
他と比べて、言語理解とワーキングメモリが少し弱かったのです。
これらが今の数値に至ったのは、攻略の結果である。
なるほど。
確かに色々と対応できるようにはなったけれど、困り事が消滅したのとは違う。
それが実感として理解できます。
別の記事(以下)で、好きなことを介して、自分が発達した実感があると書いたのですが、発達じゃなくて攻略だったようです。
【まとめ】発達特性を補う、攻略するチカラの話
実は、この「わたしは発達してきた」という誤認のせいで、息子の検査結果について説明を受けてたときに、一部ピンときていない箇所がありました。
『●●くん(息子)はとてもがんばっている。今ではいろいろなことができるようになっているけれど、それは決してそこまでの発達を遂げたということではなく、努力によって到達しているということなので、そこを勘違いしてはいけない。』
わたしには発達した実感があった。
本当に発達しないのだろうか??
そんなふうに思っていました。
でも、今回の自分の結果説明を受けて、息子について先生のおっしゃっていたことが理解できました。
方略を見出して、凹特性を攻略する術を身に着けたが、発達したわけではない。
例えるなら、
今日は階段の37段目までたどり着いたから、明日は38段目からスタートできる…ということではない。
そういうことなのです。
今日は努力して37段目まで到達できた。
明日も努力すれば37段目まで到達できるかもしれないし、35段目かもしれない。
でも、もしかすると39段目までたどり着くかもしれない。
いずれにしても、毎日のスタート地点が0であることに変わりなく、今日到達したところがデフォルトラインになるということではない。
到達ラインは、発達ラインではなく、努力ラインなのだと。
そのとき、説明を受けながら久しぶりに泣きました。
息子は毎日ゼロスタートして、今日の努力で、昨日と同じくらいの今日の自分を成り立たせている
ということなのだ。発達・成長したのとは違う。
だから、努力による到達点を基準にして、昨日より今日、今日より明日と、“もっと”を要求するのは違うということ。先生がおっしゃりたかったのはそういうことなのだと理解しました。
わたしの攻略もそんなものでできている。
発達したのではなく、代替手段を見つけて、うまく使えるようになったということ。
攻略は、わたしのようにできる場合もあるし、そうでない場合もある。
偶然の産物なのかもしれません。
人との出会い、出来事との出会い、環境との出会い。
攻略できても、困り感は消滅しないから、しんどいことに変わりはない。
だから、そこに本人の意思がある必要がある。
親が子の攻略を目指すというのはちょっと違うと思います。
自分の意志で攻略に向う余力が生まれるように、サポートするのが親の仕事。
考えるべきは、サポートはどうあるべきか模索し続けることなのだと改めて確認しました。
攻略を目標にするのは違うけれど、お子さんの将来を悲観している方がいるのなら、攻略の可能性があることを明るい材料として見るのは良いことと思います。
だから、ご参考までに、かなり大まかではありますが、わたしが実感している攻略の歴史マップ(自己分析)を例として掲載しておきます。