ASDタイプに…教えるポイント、分かりにくくてゴメンなさい!リライトしました!
ASD子育て

ASDをカミングアウトしない方針 その理由とは?

以下はカミングアウトすることに消極的な理由をご参考までに…
完全に個人的な見解です。

カミングアウトすることに消極的な理由
  1. 今現在のASDの定義が、わたしの見解と異なるから
  2. 公言するイコール発達障がい者として生きていくことを選択することだと思えるから

ASD公言に消極的な理由【1】
今現在のASDの定義が、わたしの見解と異なるから

今のASDの位置づけは、障がい者です。
法律でもそう定義されています。

でも、わたしはASDと診断された息子を障がい者とは思っていません。
そう思い込みたいというのとはちょっと違います。

生物機能として、絶対的に障がいがあると思っていないのです。
今の発達障がいという定義は、何かと比べて相対的に評価したものだと思うのです。

わたしは、定型発達と呼ばれる人は、自己と他者、AとBというように、2点以上を対象として比較考量する思考を得意とする「相対的思考型のバランス脳」、ASDの人は、1点に着目して思考するのを基本とする「絶対的思考型の特化脳」というような独自解釈をしています。

解釈の詳細は割愛しますが…

つまり、わたしはASDは障がいではなくタイプ違いの脳と捉えているということです。

ですが、社会的には、タイプ違いの脳は相違ではなく障がいと位置づけられているのが現状で、それは相対型の思考のほうが社会の基準(正)として設定されているからであり、それこそ相対的な評価として、ASD型は障がいであると位置づけられているのだと解釈しています。

生物機能に障害があると思えない

本当に「障害がある」のだとするならば、本人がひとりでいようと、誰かといようと、そこにはいつも障害が存在していると思いますが、ひとりのときには特に障害(困難)はありません。他者と関わって初めて困難の可能性が生じます。
この点で、まずそれって障害なの?って思います

次に、社会は今のところバランス脳を基準として回っていると思いますが、わたしが、そのバランス脳の基準を一方的に押し付けないように留意し、息子の特化脳の基準を尊重しつつ接していれば、大きな問題は生じません。
これって、障害というより、他者を受け容れる友好的なコミュニケーションがとれているか、いないか、という例えば異文化交流の話に近いと思うのです。
この点でも、障害ではなくて相違なのだとわたしは実感しています。

つまりは、わたしの思うASDの定義と社会的・医学的なASDの定義が異なっているので、公言したくないということです。

また、ASDの定義が医学的、社会的にこの先も変わる可能性があると思うので、あえて今、公言したくないというのも理由としてあります。
良く変わっていく予感がしているという意味です。

現に医学的には、これまでも発達障がいの分類定義は変遷しているようです。自閉症とアスペルガー等を一つに括って、ASD(自閉スペクトラム症)となったように。
医学、研究が進めば、分類も名称も変わる可能性があります。現に、かつては自閉症は隔離されるような病気として位置づけられていた時代もあったそうです。

そんな過渡的なもので、自分の息子を括りたいと思いません。

また、社会的にもASDの定義(位置づけ)は絶対的なものでなく、実はあいまいで流動的なもので、社会の基準の変化に伴って変化すると思っています。

基準により定義(社会的位置づけ)が変わると考える根拠

令和の今、女装家といわれる方々がTVの世界で多数活躍されており、ごく普通のこととして受け入れられていると思いますが、数十年前を思い返せば、考えられないことだったのではないでしょうか。かつては一般社会に溶け込むような空気感はなかったように思います。
当のご本人たちは、偏見や差別の中で苦い思いをされた経験も多くあったと想像します。
過去と現在の社会的位置づけのこの違いは、周囲のほうの変化、基準が変わったことによるものです。ご本人たちは、なんら変わっていないと思います。

これと同じようなことがASDにも言えると思っています。

ASDタイプ(例えば、空気を読まずに自分の思う通りに発言・行動するタイプ)に対する周囲の見方の変化を個人的に感じています。
最近、ASDタイプのコメンテーターがTVで活躍されているのをよく目にするようになったり、主人公にASD特性のある人物像が設定され、でも発達障がい者として描かれているわけではないドラマ(例:ゴシップ)がOAされていたり、ASDが一個性として受け入れられつつあるのかもしれないと、期待を込めて見守っています

個人的に、この先さらに多様性への受容度が高まると思っているので、障害として位置づけられている現時点で、わざわざASDという枠に息子をはめ込んで公言する必要性がないと考えています。

本人に負のフレーム効果が生じる可能性が否めないことも、重要な視点だと思います。

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